第5回主張コンクール中止のお知らせとご応募いただいた“主張”紹介

11月5日に実施を予定しておりました「第5回主張コンクール」は、応募者2名のため中止といたしました。
ご応募いただいたのは、黒瀬雅子様「障がい児を育みながら働く」と、重宗裕美様「ひとりで学校に通ってみたい」です。
多くの皆様に知っていただきたい内容ですので、ウェブサイトにてご紹介いたします。


 
『障がい児を育みながら働く』 黒瀬 雅子

我が家の次男理生は、ファロー四徴症、難聴、肛門狭窄、停留精巣、成長ホルモン分泌不全、遠視・斜視などの疾患や障がいを持って生まれた重複障害児です。

2回の心臓手術、停留精巣の手術、体調不良による頻回な入院など、2歳過ぎまでは、入退院の繰り返しでした。
心臓手術を終えるまでは、チアノーゼの真っ黒な顔色で、SPO2はとても低く酸素が欠かせず、夜は頻回にモニターアラームが鳴り、息をしているか心配で何度も呼吸を確認したものです。
2回目の心臓手術で、原因不明の低酸素脳症を起こし、全く動かない、表情もない、食事もとれない状況が続きました。
手術前は、食いしん坊で、ケラケラ笑いながらおもちゃで遊ぶ理生を同じベッドで見ていたのに…その姿はもう見られないのかと、強く悲観し落ち込みました。幸い、時間をかけて少しずつ回復してくれたのですが、この時の経験は、親として強く心に残るものとなりました。
ここまでの理生の子育ては、病気のこと・発達のことなど、不安で一杯なのに、相談できる人がいなくて、孤独を感じることが多かったです。

治療がひと段落して2歳半を過ぎた頃から、運動・知的発達ともにかなりのんびりの理生と療育園に親子通園する日々が始まりました。
母である私の職業は看護師で、理生が3歳になるまでに職場復帰予定でしたが、親子通園施設だったことや、夫以外の家族に協力者がいなかったこともあり、働きながら通園する難しさを感じ退職しました。
仕事を辞めることは、自分の描いていた社会人キャリアからの離脱や価値観の変容を迫られ、悔しい選択でした。
障がいがある子を育てながら仕事をするハードルの高さに直面し、いろんな気持ちの葛藤の中での療育園通園の始まりでした。

とはいえ、療育園に親子で通った時間は、親子で成長でき、いろんな命と出会え、似た悩みを持つ仲間と出会えた、尊い時間になり、通ってよかったと思っています。
理生は今、特別支援学校に元気に笑顔で通う小学3年生、日常生活全般にサポートが必要ですが、スモールステップで成長を続けています。

私は、理生の幼少期の孤独だった子育て経験から、在宅で過ごすお子さんと家族支援において、自分にできることがあるのではないかと考え、仕事を諦めきれない気持ちも強く、療育園通園の傍ら訪問看護ステーションでのパート勤務という形で、小さく社会復帰しました。
そこで、神経難病、重度心身障害、遺伝子疾患など病気や障がいを持ちながら家で暮らすお子さんや成人の方との素敵な出会いがありました。
皆さん、日々体調と向き合いながら、懸命に生きておられます。
見せてくださるいろんな姿に、こちらが力を頂いてきました。
また、ご家族は、呼吸器の管理をはじめ医療的ケアなど、寝る間を削ってケアにあたっておられ、きっと疲れもたくさんあると思います。
なかなか外に出られない方もおられ、ストレス発散も工夫が必要です。
ご本人・ご家族ともに、真の願いを抑えて、謙虚な気持ちで過ごされています。
でも、家族一緒の生活に幸せを見つけるしなやかさを持ち、看護師やヘルパーとの他愛もない語らいに笑顔を見せ冗談を返してくださる、お子さんの成長を共に喜び合える、しんどいときはその気持ちをぶつけてくださる。
わずかな力にしかなれていないのだろうと感じながらも、訪問看護師としての時間は、我が子の子育てと並行して、利用者さんとそのご家族からいろんなことを教えていただいた、温かく大切な時間でした。
そして、自分はこれから何をしていくべきか、考える時間ともなりました。

重度の障がいを持つ方の支援を通して、サービスが充足しないことが生活の質を揺さぶっていると感じることが多くありました。
重度訪問介護は長時間使えない細切れ支援になりがちで、とある神経難病患者さんが、「サービスに合わせて決めた時間に排泄や外出をするのではなく、自分の思うままに暮らしていきたい」と仰いました。
多くの人の当たり前が、この方には願いになってしまっているのです。我儘ではなく、当然の欲求がまかり通らない生活がたくさんあることを受け止めなければいけないと思う言葉でした。
また、お子さんに関しては、サービスを多く求めず母親が中心でケアを担うケースもあり、母の介護量が多すぎ、余裕がない生活になってしまうことも。
また、呼吸器や医療的ケアを要するお子さんの生活は、一人一人状況が違って様々です。
お子さんに合った療育園・保育園、学校など教育の場の選択や、放課後の行き場などのサービス、お子さんの成長に関して、きょうだい支援など、抱える悩みも多く、小さなころからのいろんな視点での支援がとても大事だし、その支援の手がもっと増えればよいと感じています。
先日、ご縁あって参加させていただいた、全国医療的ケアラインの発足1周年イベントで、医療的ケア児の生活や教育の現状や、今後の展望を知ることができました。
全国で繋がって、まだまだ足りない医療的ケア児への支援の拡大、地域格差、学校問題など、前に進んでいくよう、一緒に考えていきたいと思っています。みんな同じ命、どの子も教育環境が整い、色んな経験ができるようになりますように。

訪問看護での出会いや、理生を育てる障害児の親として感じてきたことから、人と繋がり・繋げる、生活の潤いや豊かさに繋がる方法を一緒に考える、障がい児者が参加できる社会を考えていく。
そんなことに興味がわき、今は訪問看護師を一旦お休みして、自分らしい働く道を模索中です。

私は、仕事を継続することを一つの目標にしています。
障がい児者の母が社会に参加していることに3つの重要性があると考えているからです。
一つは、障がい児者の介護は圧倒的に母親が担っていますが、この古典的な社会の流れを変えていくこと。
二つ目は、社会に出ることがどうしても叶わない当事者と家族の思いを共感力を持って代弁すること。
三つ目は、障がい児者と家族の暮らしを、周りの方に自分を通して理解してもらうこと。
そんな役割を担うことに小さくとも意味があるだろうと考え、障がい児の親ならではの、時間のリミットなどの就労の難しさもありますが、可能な限り仕事をしていくことを目標にしていきたいと考えています。

制度やサービスがない頃の、大変な子育てを乗り越えられてきたパワフルな先輩保護者が頑張ってくださったおかげで、母も働く選択肢が持てる今があるのではないでしょうか。
享受するだけではなく、自分も次に繋げられることをしていかなくては!と刺激をいただき奮わせてもらってもいます。
理生が繋いでくれたご縁と、そこから沸き起こる気持ちを、これからも大切にしていきたいと考えています。
 
 
 

 
『ひとりで学校に通ってみたい』 重宗 裕美
 
病弱児というと、どんな生活を想像しますか?心臓病児というと、どんな子を想像しますか?
日本は、国連から、インクルーシブ教育について勧告を受けたばかりですが、私達親子は特別支援学校によって、学校へ通うことが可能になりました。

私の娘は、妊娠中に、重い心臓病だということがわかりました。
2000年前後は助からない命でしたが、皆さんのお陰で、今、こうして命があります。

そんな娘も、今は十四歳。病名は、左心低形成・多脾症候群・洞機能不全・慢性心不全・たんぱく漏出胃腸症です。
ペースメーカー・在宅酸素・水分制限・自己注射などの治療をしています。
分かりやすくいうと、心臓が奇形の難病で、手探りの治療を続けているということです。

心臓病児というと、どんなイメージをお持ちですか?先天性心疾は、百人に一人産まれますが、軽度のものから重度まで、とても幅広くあります。
娘のような心臓は、大人の循環器医師ではわからないと言います。
先天性心疾患は、世間の認識も少なく、「成長と共に治るんでしょう?」と、軽く思われたり、逆に、手を借りたい場では、「何かあったら困る」と、拒否されることが多々あります。
それは、地域の小児科を探す時点から始まり、教育の場では、沢山の悔し涙と共に歩んできました。

時代と共に、肢体不自由・知的・情緒障害の受け皿は発展してきましたが、見た目にわからない内部疾患児の受け皿や福祉サービスは少なく、戦後からあまり変わっていないとの話を聞いたこともあります。
せっかく助かる命になったのに、制度が整っていない。
「せめて知的があれば入れるんだけどね…」という言葉もありました。
どうして?障害はひとつでも少ない方がいいのに、そう言わせる社会の現実に悲しくなりました。
そのような問題は、病状が悪化していくにつれ、増えていきました。

同じ手術をした重度心臓病のほとんどのお子さんは、勿論、色んな困難は出てきますが、術後、順調に就園就学しているように思います。
娘は、病状や感染不安から、週に一回、短時間、感染に気をつけながら、完全付添で通学がスタートしました。
たかが付添といえど、まだ小さな弟も抱え、ウィルスだらけの学校へ通うことは、私の心身を壊していきました。
吐き気と微熱の中、必死に付添しました。勉強は、毎日自宅で教え、強い口調になり、二人で泣く始末。
娘が生きる貴重な一日なのに、愛情でなく罵声をかける自分が情けなくなりました。
『逃げたい。死んだほうが楽。』そこまで思う程、怠さに追い詰められていきました。
二年生に上がってからは、弟の幼稚園送迎も加わり、体力は限界を超え、息子や私の体調により娘を学校に連れていくことも出来ない日が増えました。
本人が元気なのに行けない。おかしな話です。
ある日、怒鳴り声で、近所から児童相談所へ通報。相談員さんは事情を知り、「お母さんが大変すぎる。」と、役所のケースワーカーと相談員さんをつないで下さいました。
しかし、結果は、心臓病だと手帳一級でも福祉サービスはなし。自分しか頼れないと再認識しました。
学校も出来る限りの事はして下さいましたが、安全上、大人の付添必須は変わらぬ条件でした。

そんな状況を救ったのは、皮肉にも更なる心不全悪化による長期入院でした。
入院により、友達との交流が可能になり、院内学級にも入ることができました。
それは、私達親子にとって大きな転機でした。

たまにしか行けない学校では、お客さんという立場から脱せない。
集団生活経験のない娘は、緊張が強く、会話のキャッチボールが苦手。
けれど、数か月の入院生活の中で、毎日会う環境で『居場所』が出来、大きな成長を遂げました。

しかし、そんな楽しさとは裏腹に、新たな合併症発覚で体調はますます悪化。
点滴を外すと酷い症状に苦しみ、退院してもすぐに病院戻り。以降、7歳からは、一年の半分は入院。
いくら頑張っても、またすぐに嫌な入院。頻回な入院と差し替えばかりの点滴、苦しい水分制限に、精神が不安定になっていきました。
そんな生活の中、入院を頑張れる理由は、仲間と院内学級でした。

しかし、そこにもルールという壁が立ちはだかりました。院内学級への転籍には、役所の都合上、約一か月の入院予定がないと転籍できない。
残念ながら、当時の娘の意見書にある入院予定日数では足りませんでした。
結局、伸びて一か月になることはしばしですが、転籍出来ない。そんなもどかしい状況でした。

退院すると、繰り返す嘔吐・頭痛・倦怠感・酷い下痢で一日の半分はトイレ、それ以外は、何もできず布団の上で横になっている。
まるで生きる屍です。学校にも全く行けなくなりました。

しかし、入院で点滴すると、活力を取り戻し、人間らしい生活が送れました。
ここでは、学校に行ける身体なのに、転籍できない。それが、どうにも悔しくて溜まりませんでした。

私は、考えを転換し、「どこかで訪問学級を受けられないか?」「複学籍でうまく二校に在籍し、体調に合わせた教育をうけられないか?」思いつく学校に相談しました。
しかし、病院の院内学級は入院しないと不可。
市立の浦舟の院内学級の訪問も、基本的に、呼吸器の子優先で難しい。との回答。
地域の小学校に、再度、病弱児学級を作ってもらえないか聞いても、教育委員会は拒否。教育委員会に電話し、直接現状を訴えることにしました。
「横浜市の病弱児学級は、浦舟の院内学級があるので作りません。」とだけ言われ切られそうになりました。
入院しないと入れない院内学級なのに、病弱児の生活をどういう風に想像されて制度つくっているのでしょうか?
『教育を受ける権利』とは何なのでしょうか?
「学校に行かせないと。」「自立させないと。」そう、親として責められてきましたが、どこでも付添を求められ、預け場所もなく自立する場は得られない。学校にフルで通える体力もない。
八方塞がりでした。もう自分の手で何とかしようと決め、地域の特別支援学校と地元の小学校のコーディネーターの先生に電話をし、相談しました。
先生方も、出来る事出来ない事を真摯に考えて下さいました。
その解答を持って、教育委員会に再度訴えました。最後の望みでした。
教育委員会の方も一度持ち帰り、考えて下さいましたが、
「肢体不自由じゃないですよね?そもそも入れないんじゃないですか?こちらも引き続き考えますが、来年度は間に合いません。再来年度以降、何かできるか考えますので、今は地域の小学校に何とかしてもらって下さい。」との回答でした。
行政として精一杯の回答だったのだと思います。ですが、当時の私は、ちゃぶ台をひっくり返したくなるような気持ちでした。
娘はこの時、四年生。再来年は六年生。
そして、当時は、医師から、「五年後・十年後の姿は想像できません。」と聞いてしばらくした時のこと。
今は今しかないんです。
全てが馬鹿馬鹿しくなりました。
充実した人生を送らせてあげたいだけなのに…。
それからは、もう学校も勉強も諦めました。
わざわざ嫌いな勉強に時間を使うより、毎日やりたい事だけやればいいと決心しました。
そしたら、すごく気が楽になりました。

翌年、ある変化が起きました。
その前の一年間、校長先生が、毎月、サポート先生の申請をしても通らなかったのに、春から許可が下りました。
支援級へ移動したせいか、教育委員会への訴えのせいかは、わかりません。
学校は、人員増加により、自宅に短時間ですが勉強を教えに来て下る様に配慮して下さいました。とても充実した素晴らしい時間で、人生が豊かになった一年でした。

めでたし、めでたし…といきたいところですが、無情にも六年生からサポート先生は切られました。
理由は、支援級が二クラスに増え、教員が一名追加されたので事足りるだろうとのこと。
また振り出しです。とても残念でした。
しかし、時はコロナが日本に来た頃、感染不安で諦めました。
その代わり、一斉休校中に、都内小学校が活用したオンライン教材サービス導入の依頼をしました。
校長先生が責任をとる覚悟で申請してくれたものの、教育委員会が退け、不可。もはや、怒るパワーも起きません。

私は、中学進学に目を向け、動くことにしました。
地元の中学校は、福祉にも理解が深く、教員もいるので対応可能だとおっしゃって下さいました。
ICT教育技術も早期に対応しており、遠隔授業の可能性にも期待を膨らませました。
それと同時に、特別支援学校への入学が可能かどうかの判定もして頂き、体調悪化に備え、選択肢を二つ準備しました。
あとは、本人の意思。

退院したタイミングで、娘と両校の見学に行きました。
どちらもウェルカムな対応に感動。
その帰り道、娘は言いました。
「支援学校にしたい。訪問じゃなくて、通いたい。ひとりでバスに乗って通いたい。」
遠隔授業参加でも、交流でもなく、『ひとりで学校に通いたい』と、いうことを選んだのです。

翌年の春、お気に入りの袴を着て、入学式に参加しました。
バスは、酸素と体力の問題で諦めましたが、母子分離が六年越しに叶い、初めての自立です。

「家に帰って、学校でこんなことをしたよ。という親子の会話をして欲しい。
小学校で出来なかったことを、やり直して欲しい。」そう言ってくれた先生の言葉に、六年間の苦労が報われました。
会話のコミュニケーションが困難な子が多い学校なので、先生が友達役も担ってくれたりと。
様々なケアをしてくれました。
入学数日で、再び入院でしたが、ZOOMで交流し、学校との繋がりが耐えないようにして下さいました。

決して、娘の身体は、良くなってはいませんが、奇跡が起きました。
春の入院を最後に、ほとんど毎日、しかもフルで通うことが出来たんです。
それは、座位が辛い娘が、楽な姿勢で授業を受けられる環境にしてくれた事、体調に合わせ授業をしてくれた事、居場所を感じて楽しく過ごせた事。その三つにあると思います。
心配していた友達との交流も、自分なりにコンタクトを取り合いながら楽しく過ごしており、帰宅後も、友達の話が沢山出てくる程です。
その心の元気は、病状の数値をも奇跡を起こし、一か月ごとにしていた入院なのに、約一年間入院せずに済みました。

中学二年生になり、再び体調が厳しい状況に変化してきましたが、それでも、今、あの子は、院内学級と地域の支援学校の二つの居場所を感じることが出来ています。

とてもいい学校で満足していますが、学校の先生は娘の能力では物足りないという見方もあるようです。それはそうかもしれません。
同年代のお友達との交流やトラブルにもっと揉まれていかなければ、今後、一般社会に出たら困ると思います。
かといって、地元中学校へ通っていたら、体力的に通えないまま、一人自宅で遠隔で繋がり孤独のままだったと思います。

入退院を繰り返す病弱児にとって、最適な居場所はどんな場所なのでしょうか?
高校に上がれば院内学級にも通えなくなります。通信制など選択肢は広がり、スキルを身につけるにはいい学校は沢山ありますが、心の居場所が得られるかはわかりません。
今後、退院できない体になった時、必要なのは教育だけでなく、何かに所属するという心の居場所だと私は確信しています。
高校進学については、慎重に判断していきたいと思っています。

このように、昨今、障害児が、地域の学校で教育を受けられない事が問題になっていますが、娘の場合は、支援学校により通うことが可能になりました。
インクルーシブ教育は普及しなければならない、そう強く思います。
私の経験上、子供達はとても柔軟で、ちゃんと説明をすれば、自分との違いを怖がらず、差別はあまりしません。
自然とお互いを助け合い、成長へと繋がる社会になります。
現在の社会では、深刻な教員不足と、大人の先入観の影響、理解のなさが、一番の障害だと感じます。
いつか、この先、インクルーシブ教育が当たり前にとなった場合でも、娘の様な、院内学級にも地域の学校にも通えない子供たちの存在は、いったい、どこに行けばいいのでしょうか?
百年後も、少数派というだけで、変わらず見落とされ、今と同じ事を言われる可能性は十分にあると思います。
「こんなことなら、ずっと入院していた方が学校に通えるじゃん。」そんな悲しいことを思う親は、私で最後になって欲しいと願っています。

今主張コンクールを機会に、是非、このような、制度の間から抜け落ちた子供の存在を、多くの方に、知っていただきたいと思います。
「ひとりで学校に通ってみたい。」たったひとつの、人生を変える大きな願いです。どうか、当たり前に叶えてあげられる環境が増えますように。

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