KidsFam通信 No.1(ページ2)

ようこそ、キッズファム・カフェへ

 「もみじの家」にお子さまとともに滞在されるお母さまたちに、ゆったりした時間を過ごしていただきたいと願って始めたカフェ。
始める前は、本当に喜んでいただけるかと心配でしたが、お母さまたちの笑顔に励まされて4カ月あまりがたちました。
「家ではいつも何かしながら飲みものを飲んでいる。座ってゆっくりコーヒーがいただけて嬉しかった」
「病院では他のお母さんとゆっくり話す機会がなくて。今日はおしゃべりができて良かった」
 こうした感想をいただき、時に、カフェがお母さま同士の情報交換の場として役立っていることを知り、とても嬉しく思います。

また、このカフェは「もみじの家」に面会や見学に来られる方たちにもご利用いただいています。最近は「もみじの家」のボランティアさんもカフェに参加され、一緒にお茶を点ててくださり、皆さまに喜んでいただきました。
 これからも「もみじの家」を利用されるお母さまたちに少しでも喜んでいただけるような、そんなカフェにしていきたいと思います。

特別寄稿:病気が重いということ

国立成育医療研究センターの小児神経科医長で、「もみじの家」を担当されている久保田雅也先生に原稿執筆をお願い
しました。「病気が重い」ということは、どういうことなのか。患者に寄り添う一人の医師としての優しさが、含蓄のある
文章のなかにあふれています。

 久保田雅也 病気が重いということはどういうことだろうか。歩けなければ歩けるヒトより重い、しゃべれなければしゃべることができるヒトよりも重い。これは単純に機能で比較したもので、ほとんどの行政の診断書はこの発想で重症度分類がなされ、我々もそれに従っている。医学がヒトを精巧な機械とみなして発達してきたことのひとつの反映である。客観的に示すことができること、つまり外から観察して評価できることに関してはこの考え方が絶大な威力を発揮し、エビデンスのある対策として応用される。しかし、病気に対する当事者の主観、内省はきれいに排除されている。そんなものを顧慮すると収拾がつかなくなりエビデンスという考え方自体が崩壊してしまうからである。
 そこで外来などで疾患を抱える患者家族に相対する時にはもう
ひとつの眼が必要となる。「何に困っているか」、「何を苦痛に感じているか」、「何がしたいか」、「何をしてほしくないか」等々、内容は百人百様である。
 「治る」疾患であれば「こころ」の中まで詮索することがかえって邪魔なこともあり、このときは黙って機械になってもらい、こちらも機械として対応し、適切な治療で「困っていること」のない「正しい」作動の機械に戻せることもある。
 では「治らない」、少なくとも現在の医療レベルでは治癒が望めない場合はどうするか。エビデンスも援用しながら「医学」の外に出て行くしかない。せいぜいできることは、ない智慧をしぼって疾患ではなくヒトに「同伴」することである。「同伴」するために必要なのは「分析」ではなく、「共感」する能力であろう。わかってもわからなくてもヒトの「こころ」の中に降りていくこと、これはサイエンスが最大の宗教として動いている現在において最も重要なことである。
 子育てに「ねばならない」ばかりふりまわしているといずれ破綻するのと同様に、ケアや治療にもその都度設定される緩い目標が必要である。一人で頑張ることが美しいという構図が戦後の日本を席巻したが、昔はもっとコミュニティー(農村共同体)の中で皆で「よってたかって」みていたはずである。病気の「重さ」を吸収してくれるつながりがそこにはあった。一人で頑張り過ぎると過剰な自己抑制が倫理の仮面をかぶって他者の思想と行動を翻弄する。
 家族にはそれぞれの物語がある。百人百様の悪戦苦闘の物語をただ「聴く」ことは難しくはないが、そう易しくもない。